岡井盛夫：冊子「小夏とかつお」(平成５年６月)

丸の内高、抱擁事件

同窓生の中で、この話は聞いたことがあっても、現場を見たものはいない。約四十年の間、闇の中で忘れられていた。 　あの日のことを思うと、昨日のような感動を覚える。私にとっては、始めての抱擁であった。女の鼓動と躍動を一緒に抱いた日のことだ。 　男を抱いた女にとっても、私は始めての男であったと思う。その女は、同級生ではなかった。一級下の女であった。表現力に自信がないので、状況説明は略図の助けを借りる。 　某日、事件は「丸の内管内」の木造廊下で発生した。私はトイレに急いでいた。以下は略図で説明する。 　私はトイレに行くために、Ａ方向から×点の所を右折して、渡り廊下に降りるつもりであった。Ａ点に来たとき、Ｂ点あたりが騒がしかった。数人の女子学生の戯れる声であった。その戯れ方は、あの宝塚ジェンヌのステージを連想した。一人の可憐な美人が、素晴らしいプロポーションの男装麗人に恋い焦がれていた。美人は男装の麗人を追い求めていた。思いのタケを投げつけるクライマックスであった。男装麗人はその美人を振り切り、身を隠した。その地点が＜Ｂ点から見て＞×点のコーナーを左折した所であった。男装麗人と入れ代わりに、ただの男の通行人（私）がコーナーを〈Ａ点方向から〉右折した。その瞬間であった。美人は、私を男装の麗人と錯覚した。美人が私に抱きついたのである。頬も、オッパイも総て密着型であった。 　その時の私の感激については冒頭に書いた。しかし、まだまだ補足しなければ気がすまない。一瞬だが、女の息吹きと体温に震えた。そして、女の制服の中身を知ってしまった。突然に前触れなく、女を、その貴い青春を抱いたのであった。勿論、初体験であった。 　私は慌てふためいていたが、とになくトイレの用をすませた。私の青春もかすかに打ち震えていた。トイレの用のあと、Ｂ点に戯れはなかった。×点を左折した所で、美人と麗人とその他数人は、Ａ点付近で私を待ち伏せしていた。麗人とその他数人が、美人をそそのかしている雰囲気であった。美人は少しの恥ずかしさにテレていた。しかし、始めて男を抱いた女であった。その目に何かを訴えていた。ただ、男の私は純情な少年であった。現場を上手にとりなす術を知らなかった。美人を一瞥しただけでその場を去った。 　私は心から反省している。今の私なら、何とかその場をとりなしていたであろうと。美人の名前を知らなかったから、呼びかけが下品になるが、　 「ネエー彼女。偶然とはいえ素晴らしい一瞬を共にした。もう一度、スローモーションであの感激を再現しましょうヨ！」 　この状況説明をしながら、高知県警の田中強君(※)の顔が目に浮かんだ。事件は「自由の学園」で起きた。道路交通のことではない。しかし、ことは丸の内の大事件であるからして、とにかく、田中君に届けなくてはならないと。しかし、すでに時効が過ぎているかもしれない。 ※故人